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  • 執筆者の写真ひろみ エトランジュ

父が亡くなった。私が感じたこと。




過去とは、これからやってくる未来のことなのです。死に向かって生きるとは、過去に向かっているということ。


えっ 一体どういう意味でしょう。


私たちが過去だと思っている場所、それは三次元空間にはありません。

死に向かって生きるとは、始まりも終わりもない純粋持続という永遠(精神)に戻るということ。意識出来ていないだけで、私たちはいつも死と共に生きています。



生きていると思っているこの場所のほうが射影であり、かりそめの場だということです。三次元空間は瞬間性の場。だからはかないのです。はかない夢とは人間が生きる現実世界のこと。


人間の意識とは、肉体が自分だという感覚と、肉体や自分という感覚を忘れた「私そのもの」の意識、どちらも同時に存在しているのです。


肉体や自分という感覚を忘れた意識(感覚)そのもの。これが「自我・自他を超えた」感覚です。夢中になっている時、ゾーンにいる時の感覚。見ている物と一体になってるでしょう。


この感覚は、自覚してない人も多いでしょう。「私、オレ、自分…」と日頃頭の中で言葉が出てきますよね。言葉を使っている自分が感情を感じて、嬉しい、悲しい、なんてやってる、この自分を無視したり、嫌ってしまうことが人間の一番の間違いなのです。


悲しい時に悲しんではいけない。悲しむのが嫌だからといって避ける。誤魔化す。無視する。悲しまないように、悲しい事が起こらないように、願っていませんか。どうでしょう。悲しさという感覚を感じないように我慢することは、嬉しいこと、望ましい感覚も我慢していることなのです。これに気づけたこと、ハッキリ自覚するまでに私は半世紀近くかかりました。


理屈や知識を知っていることと、今自分が何を感じているのか、どのような思考をしているのか、「ハッキリ自覚」することとは、違うんです。


感じることを避けて生きるのをやめましょう。感じることと手放すことは表裏一体。感じること、出すこと、表現することを避けなければ、苦しみは生まれません。感情がある限り、それを嫌わないこと、えり好みをしないこと。悲しみや苦しみを消したいならばなおのことです。


人間次元では「死」は悲しみであり、永遠の別れ。


けれども、人間という次元、概念だけが人生の全てではありません。意識の次元は同時に共存しています。悲しみを感じることを避けるのは不自然。


でも ここで一番言いたいことは「死」を呪いにしてはいけない、神格化してもいけないということ。大切な人が亡くなった時の悲しみや後悔で自分の人生に呪いをかけてはなりません。故人の意志を引き継ぐことで自分を縛ってはなりません。遺言だから絶対、死んだ人は絶対なんてこと、当然ですがありません。


それは好き嫌いとは別の話。親子であろうが、最愛のパートナーであろうが、他人の人生は他人のもの。それは亡くなった人も、現在生きている人も、誰もが自分を生きたいという願いを持っています。故人を思うのであれば、なおのこと自分を生きることに集中する、それが人間としての本筋であり、亡くなった人の幸せと共存することになるのですから。


自分を生きる。どこまで行けるか、ひとえに自分自身にかかっていること。誰のせいでもありません。表層意識のみにとらわれ、他者からどう見られているかで生きる人々にとって2023年はさらに先の読めない不安を感じる出来事が目につくでしょうけれど。


人間という常識が塗り替えられていく時代。死に向かって生きる、死という永遠と共存しながら、人間のはかなさ、瞬間性をとことん味わいつくしましょう。与えられる側から与える側、創造の主体となって宇宙そのものを生きるのです。


やりたいようにやるからこそ分ることがあります。やりたいようにやってはいけない、なんて大ウソです。やりたいようにやった結果、うまくいかなかった。そこで諦めない思考と行動こそが自分に出来る、という経験、実感をもたらすのです。全てを周囲に与えられている人間ほど、出来るという感覚が育ちません。


やってもらって当たり前、思い通りにいかないと癇癪を起す、八つ当たりをするようになってしまう。「自分にはどうしようもできない」と思っているからです。 


自分という宇宙、天、神、創造の力。知識で知っているだけでは何の役にもたちません。信じるというのは、やりたいようにやってみるという「行動」が不可欠です。もっともっと思いきり、自由に生きるのです。我慢せず、やりましょう。抑えず、出しましょう。表現しましょう。


新年も、よろしくお願いいたします。




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